こんにちは、まりもんです!
みなさんは「ニトリ」をご存知です
か?
私は昨日もニトリへ行ってきました。
店舗が広くて家具や雑貨が
見やすくて、おしゃれで安いのが
特徴ですよね。
ニトリへ行ったことがなくても
CMの「お値段以上ニトリ♪」の
フレーズは知っていますよね。
これって
「お!値段以上。ニトリ♪」が
1フレーズになったもの
だったんです。
そして「ニトリ」は、ニトリの創業者
であり、ニトリ会長の似鳥昭雄
(にたとりあきお)さんの苗字から
取られたものなんですね。
ニトリは近年では、店舗数が増え
私達の生活に身近になってきて
店舗を目にすることも多くなりました。
そんなニトリの会長、似鳥昭雄会長
が【人生で大事なこと】に出演
されます。
似鳥昭雄会長は、とても面白い方で
しかも壮絶な人生を歩んで来られた
ようです。
いったいどんな方なのか?
気になるので調べてみました!
- ニトリ会長(似鳥昭雄)さんの経歴は?
- 似鳥昭雄会長のいじめや虐待とは?
- 似鳥昭雄会長の訴訟とは?
- 似鳥昭雄会長の妻との馴れ初めは?
1.ニトリ会長(似鳥昭雄)さんの経歴は?
- 名前:似鳥昭雄(にたとり あきお)
- 生年月日:1944年3月5日
- 年齢:73歳
- 出身:樺太生まれ・札幌市育ち
- 学歴:札幌短期大学卒
北海学園大学編入 - 1966年:北海学園大学経済学部卒
- 1967年:似鳥家具店創業
- 1972年:株式会社ニトリ設立
1947年、似鳥昭雄会長が3歳の時
に家族と共に樺太から北海道へ引き揚
げてきました。
100棟ほどの引揚者専用住宅での
暮らしは、とても貧しく、長屋の床は
土がむき出しで、トイレ台所は共同、
冬は窓から雪が入り込み、台所に雪
が積もるほどの過酷な環境だった
そうです。
父親は土木会社を経営し、母親は
ヤミ米を売る仕事をしていましたが
生活はとても貧しく、「銀シャリ」
を食べたことは1度もなかった
そうです。
学校の成績は悪く、通知表は5段階の
1と2ばかりでした。学生時代は
ずっと落第生で、短大から大学へ
編入する理由も、親の仕事を継ぎた
くなかったからで、その編入試験も
カンニングをしようと友人と計画
したくらいだったそうです。
カンニングは失敗に終わりましたが
なんとか合格し、友人は落ちて
しまいました。
貧しい家庭のため
学費は全てアルバイトをして賄い
友人と居酒屋を回り「取立て屋」を
して稼いでいました。稼ぎがいいもの
の相手が悪くナイフで刺されたことも
あるのだとか。
ビリヤードで相手をだまして稼いだり
スマートボールで強引に玉入れして
稼いで出入り禁止になったりと
結構あくどい事をしていたよう
ですよ^^;
大学卒業後はサラリーマンとして
営業職につきますが、仕事中に
パチンコなどをしていて半年でクビ
になり、その後父親が経営する
似鳥コンクリート工業で働きました。
そこでも火事を起こすなどしてクビ
になり、やることがなくなって
借金をして現在の「ニトリ」を
始めたそうですよ。
2.似鳥昭雄会長のいじめや虐待とは?
似鳥昭雄会長の両親はとても厳しく
今でいう虐待のようなものを
受けていたようですね。
母親のヤミ米を売る仕事を
手伝っていた似鳥昭雄会長ですが
母親からはいつも鉄拳をくらって
いたのだとか。
お腹がすいて「もっと食べたい」と
言うと味噌汁を身体にかけられて
殴られたりしていました。
当時ヤミ米を売ることは違法でした
が、ほとんどの日本人がこのヤミ米を
食べて生き抜いてきました。
私の父もヤミ米を食べるのが当たり前
の時代だった。それしか売ってないし
ヤミ米しか手に入らなかったと
言っています。
似鳥昭雄会長は
小学6年生では60kgの米俵を
担ぎ上げられるほどになっていた
そうです。
しかし父親からは月に1度は、気絶す
るくらい殴られていたのだそうです。
熱があっても働かされ、気が抜けて
いると殴られていました。
文房具や必要なものは、仕事の報酬
としてでしかもらえなかったそう
で、殴られながらこき使われていた
のだとか。
さらに小学校では、ヤミ米を売っている
せいで、罵られ、同級生から集団で
いじめられていました。
米を配達中に集団で襲われて
自転車もろとも川へ突き落とされて
死にそうになったこともあり、
そのことを母親へ告げると
「落ちた米を拾ってこい」と
言われて拾いにいったそうです。
高校へ行ってもいじめは続き
不良グループに配達用のバイクを
盗まれたりと、散々でしたので
似鳥昭雄会長は、強くなるために
ボクシングジムに通われたそうです!
サラリーマンを退職後、父親の会社
で働いていた似鳥昭雄会長ですが、
盲腸を患ってしまった時も
仕事を休ませてくれないなど
本当に大変な苦労をされてきた
ようですね。
3.似鳥昭雄会長の訴訟とは?
2015年の日経新聞で
似鳥昭雄会長の半生が
「私の履歴書」というタイトルで連載
されて、かなり面白いと評判になりま
した!
私も目を通しましたが、本当に壮絶で
驚くことばかり。
そして「私の履歴書」の連載後、
似鳥昭雄会長の母親が似鳥みつ子さんが
週間文春で、反論にでました。
「あの子は昔から嘘つきだ」
「書かれていることは全てうそ」
「家具屋は自分が考え出したもの」
などと主張されています。
その後似鳥昭雄会長の父親が亡くなり
ニトリ株はもともと父親名義だった
ため、似鳥昭雄会長が相続しましたが
その遺産分割協議書が偽造だと
母みつ子さんと、妹弟が訴訟を
起こしました。
時価総額200億円を、身内で
争うという事態になり
結果似鳥昭雄会長が勝訴しますが
その後母みつ子さんが控訴し
控訴審で和解が成立しました。
結果、億単位のお金を、母と妹弟に
支払ったことになりますが
身内での争いは本当に辛いものが
ありますよね。
和解後、似鳥昭雄会長が母親に会おう
としても会ってもらえなかったそうです。
4.似鳥昭雄会長の妻との馴れ初めは?
ニトリ会長の似鳥昭雄会長は
会社を創業した当時は赤字続きで
した。会社を1人で切り盛りし
一人暮らしで食事もままならず
栄養失調で脚気になってしまい
ました。
それを見かねたご両親が
「結婚すれば炊事洗濯に仕事も
手伝ってもらえるはず」と、お見合い
を薦めてきたのだそうです。
そしてお見合いを始めますが
「美人すぎるのはお客さんに
妬まれるからダメ」
「愛嬌があり、丈夫で長持ちしそうな
人」などと
ご両親の御目がねに叶う女性は
なかなか現れず、さらに仕事内容が
キツイということで断られたりと
お見合いは何回もされました。
そして、8回目のお見合いで
とうとうこの人だという女性、
現在の妻、百代(ももよ)
さんが現れました。
しかし結婚には早すぎるという
百代さんの気持ちから、断られた
そうです。
ご両親はかなり説得されたそうで
根負けした百代さんは結婚に応じ
なんと、似鳥昭雄会長と出会って
3回目(結婚式を含め)で結婚され
ました!
昔はすごい時代だったんですね~。
1968年6月16日
似鳥昭雄会長24歳
百代さん20歳で、晴れてご結婚
されました!
妻百代さんは愛想が良くて、さらに
女性番長だったらしく、度胸があり
質の悪いお客さんとにも気に入られ
上手に応対してくれるので
仕事の役割分担ができて
似鳥昭雄会長は、配達と仕入れに
専念することができ、業績は
右肩上がりになっていったそうです。
まさに「アゲマン」のような女性
だったのですね!
妻百代さんの貢献のおかげで
ニトリは大きく羽ばたくことが
できたそうですよ!
まとめ
ニトリは、家具業界のユニクロ
と言われるくらい知名度が
上がり、人気があります。
特にコストが抑えられるので
若い人にも人気ですよね。
【人生で大事なこと】では
人気の秘密が公開されそうで
楽しみです。
似鳥昭雄会長は、壮絶な人生を
歩まれましたが、現在はこんなに
すばらしい会社を造り上げ
人生ってどうなるか分からない
ですよね!
今後のニトリにも注目したいです。
今日も最後まで読んでいただいて
ありがとうございました!
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